ヒトの腸内に生息している腸内細菌は1000種類、100兆個にも及び、それら腸内細菌の多様な遺伝子の働きは、免疫系やホルモン系、神経系に作用していると言われています。
腸内細菌が持つ多くの遺伝子が私たちの生命にどのような影響を与えているのか、そのことについては詳しく分かっていませんが、生活習慣病などの病気だけではなく、うつ病の予防など、「心」の領域も含めた私たちの健康維持と腸内フローラは、切っても切り離せない関係にあると考えられます。
そのことを踏まえたうえで、ここでは「エピジェネティクス」について述べてみたいと思います。
「エピジェネティクス(後天的遺伝子制御変化)」とは簡単にいえば、生命という存在は、その全てが最初から遺伝子によって規定される(先天的)わけではなく、環境にも起因している(後天的)という考え方です。
これまではDNAに記録されている遺伝情報が、個体に表現されるという説(セントラルドグマ説)が主流でした。つまり、情報の流れがDNAからRNA、たんぱく質へと一方通行であり、安定的な物質であるDNAが生体内の情報を規定するのに優位だと考えられていたのです。
しかし、1960年代に、ハワード・テミンが遺伝情報はRNAから逆向きに流れ、DNAの情報が逆転写酵素の働きによって上書きされることを証明すると、遺伝情報の流れは一方通行ではないことが分かってきました。
また、テクノロジーの発展によって、遺伝子の解析が可能になると、ヒトの遺伝子を全て解析する試みである「ヒトゲノム計画」が実行されるようになりました。そして、それによってヒトの全遺伝子が解析されれば、生命の本質をつかむことが出来、あらゆる病気も治療出来るようになると期待されました。
ところが、ヒトゲノムの解析の結果は、人々が期待したようなものではなく、たんぱく質をコードする遺伝子はゲノムの約2%(25000個)にすぎないことが判明したのです。ちなみに、この数はチンパンジーとほとんど同じだとされています。
さらにそれ以外の98%は、働きを失った遺伝子の残骸や、無意味な配列の反復だと考えられましたが、それらの一見無用なDNAを解析してみると、何らかの生命活動に関わる機能があることが分かってきたのです。
そして、これらの結果やその後の研究によって、生命活動や疾病は遺伝子そのものの変化に因るのではなく、遺伝子上のスイッチのオン・オフに起因することが明らかにされてきました。
では、遺伝子上のスイッチのオン・オフは、何によってコントロールされるのでしょうか? 実はそれは「環境からの信号」なのです。細胞膜に存在している調節タンパク質の存在が、環境からの信号をもとに情報をダウンロードして、核のRNAやDNAに何らかの影響を与えているのです。この事実こそが「エピジェネティクス(後天的遺伝子制御変化)」なのです。
人間総合科学大学教授の藤田紘一郎氏は、「エピジェネティクス」についてこのように述べています。
近年の研究によって、生命のあり方をコントロールしているのは「環境からの信号」であることが大きいとわかってきています。この信号を元に、転写因子と呼ばれる調節タンパク質によってコントロールされ、遺伝子が活性化したり、不活性になったりする、つまり、遺伝子のスイッチがオン・オフされるということで説明できるのです。
(藤田紘一郎 『遺伝子も腸の言いなり』 p136)
先天的には同じ遺伝情報、つまり同じゲノム(DNA塩基配列)であったとしても、後天的な環境因子でゲノムが修飾され、個体レベルの形質が異なってくるというものです。
遺伝子の中身は変えられませんが、同じ遺伝情報であっても、環境などに応じ、しなやかで多様に変化させる手段を私たちは獲得してきました。
(同 p160)
また、東京大学大学院総合文化研究科教授の太田邦史氏は、「エピジェネティクス」について以下のように述べています。
DNAが生命のかなりの部分を決定している、という「生まれ」の呪縛にとらわれている人は多いと思います。「両親の血筋を考えると自分の将来はとうてい期待できない」などと、悲観する人がよくいます。生物学でも「生まれ」と「育ち」のどちらかが重要かという議論がよく行われてきました。たしかに、一卵性双生児は全く同一のDNAを持っているため、見た目は瓜二つです。しかし、たとえ一卵性双生児でも、どちらかが遺伝的な背景があると思われる病気にかかってもう片方は発病しないというケースが報告されています。
(太田邦史 『エピゲノムと生命』 p22~23)
実際には、生物のいろいろな性質(「表現型」といいます)は、DNAだけで決まっているのではなく、環境と生物との相互作用の中で決定され、それが細胞分裂や世代を超えて維持されるのです。「生まれ」という基盤が、「育ち」によって影響を受けながら、やがて固定的な表現型を生み出すと考えられるのが、現在の生物学の常識となっています。エピジェネティクスは、そのような環境要因がDNAの使われ方にどう影響するか、ということを扱う学問なのです。
(同 p23)
つまり、これまで長く論争されてきた、ヒトという生命に対する「氏か、育ちか」の議論は当初、「育ち」ではなく、「氏」のほうに軍配が上がっていたのですが、その後の研究によって、「氏」(生まれ)ではなく、むしろ「育ち」(環境)のほうが優勢なのではないかと考えられるようになってきたのです。
すなわち、人間の運命とはあらかじめ決められているものではなく、どのような環境を選択するかによって運命は変えられるということが、「エピジェネティクス」によって分かってきたのです。
このことに関して、筑波大学名誉教授の村上和雄氏は、以下のように述べています。
昔から「病は気から」という言い方があります。心の持ち方一つで、人間は健康を損ねたり、また病気に打ち勝ったりする――という意味ですが、私の考えではそれこそ遺伝子が関係しているということなのです。
つまり、心で何をどう考えているかが遺伝子のはたらきに影響を与え、病気になったり健康になったりする。それだけではなく、幸せをつかむ生き方ができるかどうかも、遺伝子のはたらきによると考える学者もいます。
これは、人間の幸せは生まれつき遺伝子で決まっている、という意味ではありません。幸せに関係すると考えられる遺伝子は、だれの遺伝子にも潜在しているはずです。その遺伝子をONにすればいいのです。いままで眠っていてOFFになっていた遺伝子を起こしてはたらかせる、ということです。
(村上和雄 『生命の暗号』)
そして、「エピジェネティクス」と「腸内フローラ」をうまく関係させることで、私たちはより健やかな人生を手に入れることが出来るのです。
近年、外部環境だけではなく、腸内細菌のバランスが良くなり、腸内環境が改善されることでも、遺伝情報への働きかけが起こり、免疫系の機能維持や免疫系の調整が行われることが次第に明らかになってきています。
参考文献
上野川修一 『からだの中の外界 腸のふしぎ』 講談社
太田邦史 『エピゲノムと生命 DNAだけでない「遺伝」のしくみ』 講談社
藤田紘一郎 『脳はバカ、腸はかしこい』 三五館
藤田紘一郎 『遺伝子も腸の言いなり』 三五館
村上和雄 『生命の暗号 あなたの遺伝子が目覚めるとき』 サンマーク出版
ブルース・リプトン 『思考のすごい力 心はいかにして細胞をコントロールするか』 西尾香苗 訳 ダイヤモンド社